朝の散歩ルートに神社を加えるのがお薦めな理由3選

あきらんウォーク

歴史好きな私はお散歩コースにも常に神社仏閣をチョイスしています。
数百年、いいえ、場合によっては千年近くもの昔から、そこに暮らす人々の信仰を集めていた究極のパワースポットであり、自分がこの世での生を終えた後も、さらに数百年、そこに存在し続けるであろう偉大な存在・・・・・。

今回は、そんな神社仏閣のなかでも、特に「神社」を、そして特に「朝」にお散歩したほうがよいですよーっというテーマでお話をさせていただきますね。

朝の神社は心が引き締まる!

一部、昼夜逆転のお仕事をされている方々にはあてはありませんが、多くの方にとって、朝は文字通り「1日の華麗なるスタート」です。
その朝イチを神社という「非日常」の神域に身を置きスタートすることによって良い意味でスピリチュアルな精神世界を意識でき、その日に行う様々な「雑事」にも鷹揚な気持ちで対峙していくことができるとは思いませんか?

私たちは日常を生きています。乱暴にいうと「その日ぐらし」
広い視野で自分を見つめる心の余裕もなく、今日の会議、明日の商談、その一つ一つをいか問題なく乗り越えていくか!と悩み、思案することで必死なのです。
別にこれをバカにしているわけではありません。尊い努力です。

ただ考えてみてください。人間は油断すると、寝ぼけ眼で起きて、コーヒー、シャワー、満員電車、そしていきなり容赦なくフルボッコのビジネスに身を躍らせる日常。
疲れ果てて帰宅して、泥のように眠って、また翌朝は前日の流れの繰り返しです。気が付くとそういう生活を十数年・・・。

朝、神社という神域の澄んだ空気のなかに身を置いて、心を清める、というか身を引き締めることで、そのあとの「日常」を「流されない日常」に変えることができます。

朝の神社は緑が鮮やか!

前項でも書きましたが、神社は古来よりその地域に存在し近隣住民から崇められています。
そこには樹齢数百年の保護樹木が伐採されずに残っており、新緑の頃は緑が鮮やかです。
夕方以降のお散歩では、このせっかくの歴史ある緑の鮮やかな色彩を満喫できません。

「目に青葉」というように、視界に緑があると人間は本能的に落ち着きます。
朝から緑の葉がそよぐ木の下に身を置いて、深呼吸をしてみてください。まさに「森林浴」という言葉がある通り、リフレッシュ効果は抜群です。

何も特別なことをせず、お散歩の間に立ち寄って、その空間にいるだけでよいのです。あくまでも気分の問題ですが心が浄化される感覚を味わうことができると思います。
神社の一角は、それ自体が「エリア化」しており、周囲の県道や住宅街の雑踏からも隔絶されています。
歴史が作り上げた得難いスピリチュアル・スポットです。

朝の神社の階段を昇ろう!

神社では、鳥居をくぐった後、本殿まで、たいがい階段を昇ります。 
お散歩・ウォーキングという有酸素運動と、階段を昇り筋肉を使うレジスタンス運動の、その両方を適度に取り入れることで、脂肪燃焼には顕著な効果が見られるといわれています。

朝から山登りのようなきついコースに抵抗がある方でも、ウォーキングの途中に階段を数十段昇るくらいなら、さほど負担にもなりませんよね。
それくらいの軽い階段上りでも毎朝繰り返していれば、ちりも積もればナントヤラ、で長い期間には身体へ徐々によい影響を与えます。

もちろん昇りきった後は本殿に向かって柏手を打って、緑の樹々の下で深く深呼吸!ここまでがセットですよ。
階段を、ただの踏み台昇降のような気持で昇るのは苦痛なひともいるかもしれませんが、神域の澄んだ空間のなかでリラックスする目的のための「手段」として階段を昇るだけなのですから、気持ちの上でも抵抗はないですよね。

最後に

今回は朝のお散歩に神社をチョイスしてくださいな~という切り口でお話をしてきました。
神社は一般的に午前中に行くべき場所だといわれています。
夕方以降、特に夜になると、朝のような清新なイメージは薄れ、怪談・恐怖体験の舞台の代名詞になりかねませんもんね。

夜にそぐわない場所だというのはわかった!でも、朝ならなぜ神社に特定するの?寺はなぜダメ?というご質問があるかもしれません。

ダメではないです。

私が住む大田区の池上本門寺など、朝から数十人のお坊様の「なんみょうほうれんげーきょう」が聴けて壮観です。
長野の善光寺の「お朝事」も散歩コースにして体験できるひとはよいなぁ、と思います。近隣に住む方々が羨ましいです。
そういう荘厳なお寺であれば、神社と同じく朝のウォーキング・スポットとしても、なんら問題ありません。

ただ、お寺はたいがいお墓寺も多く、朝から他人様のお墓は・・・というのが私の自己中心的な個人的見解(笑)

コメント

タイトルとURLをコピーしました